ジャケットを飾っている映画「月曜日のユカ」は、加賀まりこが男を手玉に取るキュートな悪女を演じた作品で、横浜を舞台にモノクロで撮影された中平康のスタイリッシュな映像は、単館モノのフランス映画のような味がある。黛敏郎の洗練された音楽も心地良い。

 僕は「月曜日のユカ」をDVDで観ると、その流れでナンシー・シナトラの「These Boots Are Made for Walki'n」(これ放題は「にくい貴方」という)あたりを聴きたくなるのだが、このアルバムもそういう気分で聴いてみたい。

 短い序曲(夜明けのスキャット)の後、土岐麻子とMika Beyond Jazzが歌うボサノバ調の「恋のバカンス」が始まる。オリジナルを歌っていたのはザ・ピーナッツ。1963年のヒット曲で、僕はまだ小学校に上がったばかりの頃だったが、翌年のオリンピックの頃にかけて、テレビでザ・ピーナッツが盛んに歌っていたのを思い出す。

 わが家は祖母や叔父が同居する大家族だったこともあって、僕は幼い頃からオトナに混じって歌番組なんかをよく見ていた。日曜日の午後などは春日八郎や田端義夫や島倉千代子やコロムビア・ローズ…まさにニッポンの歌謡界らしい面々が集まる劇場中継スタイルの歌番組をやっていたけれど、一方にポップス畑のシンガーが出演してコントなどを交えつつ、歌とダンスを披露するといったタイプの番組もあった。

「ザ・ヒットパレード」や「シャボン玉ホリデー」、「スパークショー」、「ホイホイミューージックスクール」・・といくつか思い浮かんでくるが、こういう番組の常連というと、ザ・ピーナッツや坂本九、森山加代子、中尾ミエ・園まり・伊東ゆかりのナベプロ三人娘に弘田三枝子、スリーファンキーズ…。

 彼らは当初、アメリカンポップス(あるいはフレンチ、カンツォーネ)に日本語歌詞を付けたカバー曲を歌っていたが、やがて日本の作曲家にるオリジナル曲もレコード化されるようになった。「恋のバカンス」は宮川泰が手掛けた和製ポップスの秀作。バカンスというキーワードはCMコピーなども含めた、時の流行語でもあった。おそらく、そのネタ元は弘田三枝子の歌でも知られる「ヴァケーション」(コニー・フランシス)だろう。ともかく「バカンス」というフレーズは、高度経済成長期でアソビの幅が広がった、日本のムードにも良く合っていた。宮川泰、中村八大、いずみたく、すぎやまこういち、筒美京平・・と、60年代の後半にかけて、秀れたポップスの作り手が頭角を表す。西洋文化を表現する言い回しの一つに「バタ臭い」と言うのがあるけれど、和製ポップスの名曲には、バターに程よくショウユをブレンドした、日本人好みの風味が感じられる。「恋のバカンス」と同じ、詞・岩谷時子、曲・宮川泰、歌・ザ・ピーナッツの代表曲に「ウナ・セラ・ディ東京」(64年)というのがあるけれど、そんなオリンピック当時に出来上がった新しい東京風景が浮かび上がってくる作品も多い。

 首都高速、その路上を走るGTタイプのスポーツカー、地下街、高層ホテル(ビル)の回転式展望レストラン、原宿・表参道のブティック街・・。そう、このラテン・アレンジの「恋のバカンス」や「別れの朝」を聴いていて、ぼんやり思い浮かんできたのは、青山や赤坂あたりの裏街にひっそりと建つ「秀和レジデンス」のマンション風景。群青の瓦屋根と手作りケーキを思わせる白いナマコ壁、南欧イメージの秀和マンションが港区界隈を中心に増えていったのも、ちょうどこのアルバムの原曲が世に流れていた時代だった。加賀まりこ演じるユカが暮らしていたのは横浜だったが、ああいうシャレたファッションモデルのおねえさんが、ドンクのフランスパンを抱えて南青山の秀和へ消えていくショットが回想される。

 カバーポップスの時代、多くの女性シンガーがブラウン管をにぎわしていたが、66年頃からのエレキ、GSブームの時期は男性主体となって、GSの陰りが見える68年の終わり頃からまたピンの女性シンガーがヒットチャートに並ぶようになる。個人的に、あの小川ローザの「Oh!モーレツ」CMが幕開けの花火、みたいなイメージをもっているのだが、いしだあゆみの「ブルーライト・ヨコハマ」(68年12月発売)が大ヒットするのも、モーレツCMガブレイクする69年の年頭からだった。アルバム内の曲でいえば「夜明けのスキャット」「手紙」(由紀さおり)、「四つのお願い」(ちあきなおみ)「人形の家」(弘田三枝子)、「真夏の出来事」(平山みき)といったあたりはGSとオーバーラップするように始まったガールポップ時代のヒット曲、と言っていいだろう。71年には小柳ルミ子、南沙織、天地真理が出揃って、「アイドルの時代」がスタートする。つまり、その間は割合とオトナの女の歌が巷に流行していた。

 この他にも、伊東ゆかり、奥村チヨ、辺見マリ、渚ゆう子・・数多くの女性シンガーが活躍したけれど、歌とともに華やかなファッションが思い浮かんでくる。サイケやピーコックの影響を受けたドレス、アンチ・ミニとして登場したマキシーやミディ丈のスカートにパンタロン。そして、規模の広いアイシャドーとボリューム感たっぷりのツケマツ毛・・メイクも派手だった。

 当時の女性シンガーにとって、70年3月に創刊された「anan」は、少なからず影響を与えたメディアだろう。芸能界のタレントが、anan誌面を飾るようになるのはまだずっと後の話だが、それなりのスタイリストが歌手にも付くようになって、旧来の舞台衣装とは違った服のコーディネートが定着していく。ケヤキ並木の道づたいにブティックが並ぶ、原宿表参道でロケしたプロモーション映像なども、スポニチ芸能ニュースで流れるようになった。喫茶店のレオンやブティックが並んだセントラルアパート、カフェ・ド・ロペ、同潤会アパート・・往年の表参道の街並もなつかしいが、センターにケヤキ並木の緑道が続く概観は半世紀前とさほど変わっていない。鳥山雄司がプロデュースしたこのアルバムも、単なる60、70年代への郷愁…とは違う「スタンダード」の趣が感じられる。

 いまどきの表参道のカフェにも、パンケーキをチャーミングに頬張るユカはいるはずだ。